「難しい」っていうの、やめました。
以前は、人と話している時に「難しい」って言葉をよく使っていました。
問題の大小は問わず、現時点の良くない状態に対して、有効な解決策を見いだせていない物事について誰かと話をする時に、
「…なんだよね。うーん、難しいね」で言葉を締めくくることが多くありました。
特に女性の場合は自分の抱えていることに対して、相手に解決策を示されるより、ただ話を聞いて共感して欲しいという気持ちで話すことが多いです。
なので相手の話を聞いた後の「うーん、難しいね」は、解決策はなに一つアドバイスできていないけど、話し手の気持ちをスッキリさせる力があると私は思っています。
でも最近、その「難しい」という言葉に違和感を覚えるようになって。
「難しい」という言葉は単なるコミュニケーションとしては有効な言葉だけど、本当に自分が解決すべき問題に関しては、安易に使うべきじゃないなって思うようになったんです。
その理由はたった一つ。
「難しい」という言葉を使うことで、その問題に対する思考がストップしてしまうから。
特に自分自身が抱えている問題について人に説明している時。
最後に「難しいね」と相手に言ったり、それを受けた相手に「ほんと、難しいね」と言ってもらうと大体それでその話は終わります。
そうすると、その後の自分自身でその問題について考えようと思わなくなるんですよね。
「難しい」って言葉を使うことによって、その問題を道の真ん中からわきに追いやってしまう。
「難しい」=「問題を解決することは不可能」になってしまうんです。
解決策が見つからない問題のほとんどは、ただ「複雑」なだけ
でも実際は「難しい」と「問題を解決することは不可能」は同じではないんですよね。
私が日常的に使っていた「難しい」っていうのは、本当の意味で言うと「問題が複雑だ」ってことじゃないかと思うんです。
・Aという一つの問題の中に、小さな課題①②③…がいくつも複雑に絡み合っている。
・その課題を一つか二つ解決しただけでは、問題A自体はなくなりそうにない。
よくよく考えてみるとこんな構図になっていることがほとんどなんですけど、それを人に説明するのは大変なので、便宜上「難しい」とひとくくりにしてしまう。
んで、その言葉を自分で発してしまったがために、自分自身が「この問題は難しい。解決できるようなものではない」って思い込んでしまうんじゃないかと。
「難しい」って言葉を使っていても、ここら辺をちゃんと自分で分かってるならいいんです。
でも私の場合は、日常的に「難しい」を多用しすぎた結果、いつの間にか「ただちょっと複雑なだけ」の問題も「解決できない」ものとして考えることをやめる癖がついてしまったんです。
ここになんとなく気づきはじめてから、私は日常会話の中で「難しい」という言葉を使うのをやめました。
自分の話だけじゃなく、人の話を聞くときも場合によっては「難しいね」の代わりに「少し複雑だね」とか「解決するまでの道がたくさんあるんだね」なんて言葉を選んで使うようになりました。
私自身が「難しい」を使うことでその問題に対して思考停止状態になってしまっていたので、もしかしたら私以外にも無意識にそうなっている人がいるかもしれない。
解決策が欲しくて話しているわけじゃないとしても、本当に相手にとって大事なことなら私の一言で問題解決のための思考のシャッターを降ろさせてしまってはいけないんじゃないか、と思うようになったんです。
ま、とかなんとかいいながら、実際はただ「難しいね」って言ってほしい人もいるだろうし、結局は私自身が「難しい」から離れたくてやってることなんですが。
発する言葉が思考と行動を変えていく
もちろん世の中には病気だったり死だったり、解決が本当に「難しい」問題もたくさんあります。
でも、私たちが日常生活で出くわす一見難しくみえる問題って、けっこうな数が「ただ複雑な」だけなんじゃないでしょうか。
だからこそ、言葉で自分の思考を停止させてしまうのはもったいない。
「難しい」を「複雑だ」に変えるだけで、「じゃあこの問題の何が複雑なのか、ちょっと因数分解してみよう」って気になってくるんです。
そうしたら意外と、「この問題のすべてを解決することは今はできないけど、この部分のここだけなら今行動できる」ってのが見つかったりするんです。
それだけで、思考停止していた時の0から1へ、一歩前進ですよ。
言葉の力って思った以上に大きいんですね。
使う言葉一つで、その人の思考や行動が変わっていく。
そう思うと今回の「難しい」もそうだけど、
「出来ない」とか「私はだめだ」っていうより、思ってなくても「きっと出来る、ってか私スゴイし」って口にしてた方が断然楽しく生きれそうな気がしますね。
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